質問:ATL
ニュー・オリンズ(NO)にいる友達が週末、アトランタに遊びにくるというのです。
South さんによるアトランタ一日観光モデル・コースなんてあったら、
教えていただけますでしょうか?ちなみに女性二人で車で回ります。

South :
そうですね、まずWelcome to Atlantaということで、Atlanta Baseのレストラン、VERSITY, HOOTERS(男性のゲスト)には、一度は連れていきましょう。特にVERSITYはCoca-Colaの一番最初に顧客ですから、今でもCoca-Colaの会長さんが、毎年創立記念日にこのレストランをおとずれます。
わたしも、個人的によく利用します。
また、AtlantaのLocal Beer,『 Sweetwater』がDenverで行われたthe 2002 Great American Beer Festivalで"Small Brewery of the Year"を獲得しました。ぜひ試飲下さい。
-Great American Beer Festival
-Sweetwater Brew

Margaret Mitchell House

TourはMidtownの10th のMargaret Mitchell Houseからスタートします。中の1時間半のツアー(歴史の講義)には参加しません。

 
ATL「この家、車のベンツの基金によってされて、でも再建されるまで2度放火にあっている、『風とともに去りぬ.(GWW)』って、聖書の次に翻訳されている数が多く、いまでも年間25万札売れているですって。MargaretってこのPeachtree Stでタクシーにひかれて、亡くなったの、でも不思議なことに前の旦那がその1週間前に自殺したことをしったから、Margaretも自殺した可能性もあるわ。」  

また、どうしても、彼女の遺留品(タイプライターetc)をご覧になりたけば、Down Town(D/T)の図書館に行きます。ここにMargaret Mitchell Roomがあります。

M. Mitchell HouseからPeachtree Stを南に右手にFox劇場、向いにGeorgian Terrace Hotel.

 
ATL「このG. Terrace, GWWのプレミアムショー1939年の時、スターが宿泊したの、日本の佐藤工業が再建したそうよ。プレミアムショーの劇場はD/T Low's Theaterだけど、それも火事でなくなったの。 Atlanta本社の製紙、建材会社, 現在のGeorgia Pacficのところにあったの。Low's Theaterがあったことを記念して小さな噴水の広場があるわ。」

ATL「Atlantaの町は、焼け野原から復興したから、フェニクス(不死鳥)なんてニックネームがついているの。
そうそう、ニューオリンズのことをBig Easyというけど、GeorgiaのことをPeach Stateと呼ぶのよ。
Georgiaの女性のことをGeorgia Peach」

NO「私たちは南部美人だからSouthern Belleね。」  

「風と共に去りぬ」生誕の地/歴史
The Margaret Mitchell House & Museum

1861年4月に興った南北戦争は、文字通り広大なアメリカ国土を二つに分ける悲惨な戦いでした。肉親や兄弟、友人同士でありながら、敵味方に分かれて戦った兵士も少なくありません。
4年に及ぶ長い戦いで、敗退を続ける南部連合軍に残された最大の砦であり、その生き残りを賭けて壮絶な戦いが繰り広げられたのが赤土の拡がるAtlantaでした。そのAtlantaを舞台に、戦争前の裕福な時代から悲惨な戦争、敗戦そして復興と、激動の時代を生きた主人公Scarlett O'haraを中心に人々の壮大なドラマを描いたのが、「風と共に去りぬ」です。

すべて明日、タラに戻って考えることにしよう。
きっとうまくいくわ。
明日、、、彼を取り戻す方法も考えよう。
すべてうまくいけば、、、(幸せな)明日が来るわ」

かけがえのない多くのものを失った混乱と絶望の淵にありながら、Scarlett O'haraは、自分の心にこう語りかけます。その勇気、力強さに、読者は共感し、彼女の明日の幸せを期待して、長い物語のページを閉じます。

1936年6月30日に出版された「風と共に去りぬ」は、またたく間にベストセラーとなり、わずか6カ月後には、100万部を売り切り、以降、今日まで増刷に増刷を重ねてきました。
また世界37カ国語で翻訳/出版され、単一小説としては、文学史上最大の発行部数を誇り、単一書籍としても、聖書に次ぐといわれています。アメリカ国内だけで、いまだに毎年25万部以上が売れ続けているのです。

1937年に日本語訳「風と共に去りぬ」が出版されました。Scarlettの生き方に、今ほど自由平等ではなかった多くの女性に、勇気と感動の明日への夢を与えてくれました。

幼女期から青春期、Margaretは多くの勇猛果敢な人物に憧れてきました。彼女はかつて、小説「風とともに去りぬ」のメインテーマの一つは、逆境に立ち向かう強い意思であると語っています。

不朽の名作は、この建物の一室#1で生まれました。一人の小さくも偉大だった女性の琴線に触れて下さい。
1925年7月4日、Margaretは。John Robert Marshと結婚し、その日から、このアパートの1号室に入居して結婚生活を過ごしました。そして1932年までの7年あまり、ここに住みましたが、その間、約3年以上にわたって「風とともに去りぬ」を執筆したのです。(完成まで10年かかった。)

Margaretは当時としては、ススんだ女性で、少しばかりフェミニストでした。アパートに入居した頃、ドアーにはJohn Marshのネーム・カードと共に、婚前姓であるMargaret Mitchellの名札も貼り付けていました。これは、家族や友人の間で、ちょっとしたスキャンダル話を生み出すことになりました。また、1920年代、MargaretはAtlanta Journal社の記者をしていましたが、職場でも旧姓のままで通しました。今でこそキャリアウーマンなら普通のことですが、当時としては、珍しく、なにごともにも積極果敢に取組み、男性記者顔負けの取材記事を書いていました。
「風とともに去りぬ」の献呈のページにも「J.R.M.へ捧げる」と夫のイニシャルを記していますが、こんなところにも自立するMargaretらしい姿が見えます。

アパートは狭く、外光もあまり入らない暗い部屋でした。唯一、西側のアルコープ窓から西陽がさすだけでしたが、それゆえMargaretは居心地の良いこの窓辺を好んで仕事をしたものです。

スチーム暖房は天井にありました。そもそも一世帯用住宅だったこの建物は、アパートに改築する際もコストを削減するために、既存の配管をそのまま利用していました。身長148センチしかなかったマーガレットにとっては、さぞ不都合だったことでしょう。 マーガレットはこのアパートを「Dump(ゴミ捨て場)」と呼びましたが、けっして汚く荒れ果てていたわけではありません。建物の内外は、いまご覧になっているようなこ奇麗なたたずまいでした。
「Dump」という言葉は、1920年代〜30年代の少しくずれた流行語で「自分の家(アタイのヤサ)」といった意味合いです。

Margaretは、手紙魔といえるほどに、生涯に数千もの手紙を書き、日常の事細かを綴っていました。

Margaretは足首に負った大怪我で外出できなくなった1926年から「風と共に去りぬ」の執筆を始めました。最初に小説の最終章を書き、その内容は最後まで書き変えられませんでした。
小説を書き始めてから出版社の手にわたるまで、9年の歳月が流れ、その間に本編はさまざまに書き換えられたにもかかわらず、最初に書いた結末がそのまま残されたのは、きわめて興味深い点です。

アパートの居間には、夫婦の友人らが頻繁に訪れましたが、夫のJohn以外にMargaretが小説を書いていることを知る人はいませんでした。誰かが訪ねてくると、彼女は書きかけの原稿やタイプライターにタオルを掛けて隠していました。その頃のMargaret には、この小説を出版する意思はおろか、人に読ませるような自信さえ、まったくなかったのです。
時が経つにつれ、原稿の量は増えていき、それらはいくつかの大きな封筒に詰め込まれ、テーブルの下やクローゼットの棚などに乱雑に置かれるようになりました。

ベッドルームは、
アパートの部屋としても狭く、端部屋のフロアーのため、この部屋は寝室兼ダイニングの部屋になっています。ベッドもフルサイズのダブルベッドより小さく、3クォーター・サイズと呼ばれるものです。幸いにもMargaretの体は小さく148センチとあまり大きくないので、(Johnは身長182センチ)さほど不便はなかったようです。

青い籐椅子の後ろにアンティークなミシンが置いてありますが、裁縫はMargaretの好きな家事仕事だったようです。多くの友人や家族に宛てた彼女の手紙には、この青い籐椅子に座って、窓の外のポプラの木を眺めているというくだりが頻繁に見られます。 しかし料理はしなかったみたいです。

当時、この台所脇のポーチは、外に開いていました。そしてポーチに面した10番街には、トロリー電車が走り、通りの反対側にはさまざまな店が並んでいました。通りは、ちょっと気取ったおしゃれな人々などで賑わい、Margaret とJohnは、そんなアヴァン.ギャルド(前衛的)な雰囲気に包まれて暮らしていたのです。

この原稿は1935年、アメリカ南部文学発掘の旅をしていたMacmillan出版社の編集者Harold Latham氏に手渡されます。実は、Margaretはこれだけの年月を執筆に費やしたにも拘わらず、まだ始まりの章を書いていませんでした、それどころかアイデアはあったものの、題名さえもつけていませんでした。原稿は一目みただけで、大幅な編集が必要なことは、明らかでした。しかしそれをしてLatham氏はこの遠大なストーリー性に強くひかれ、小説家Margaret Mitchellとの出版契約を結びました。。それからの数カ月、Margaretは原稿の編集に追われることになりました。

Margaret自身、いくつかの理由でこの小説が売れるとは思ってもみませんでした。中でも1、037ページと非常に長編であること、また当時としては高い値つけがされたことによります。こうして「風とともに去りぬ」は1936年、出版されました。大恐慌からの回復期とはいえ、まだ深刻な不況が続いている最中でしたが、発売わずか半年間で100万が売れてしましました。出版界ではまさに記録的な売れ行きをみせたのです。

1937年にMargaretに贈られたthe Pulitzer Prize(ピューリッツアー賞) はアメリカで毎年、優れた文学作品や報道などに与えられる非常に栄えある賞です

ハリウッドのVictor Flemingにより1939年12月15日プレミアムショーされた映画「風と共に去りぬ」は史上空前のヒットになりました。8つのアカデミー賞に輝き、延べ観客人数は、これまでのどの映画よりも多いといわれ、半世紀以上も経た今日も、いまだに世界各地でロードショーが続いています。

日本にでは、第二次大戦で焦土と化した国土の復興と、疲弊と混乱、悲哀に沈む日本人に明日への希望を抱かせようと、進駐軍総司令官だったマッカーサー元帥の働きかけで、1945年以降各地で上映が進められたといいます。

彼女が夫と映画を見にPeachtree Streetを横断しようとした時、走ってきたタクシーにひかれた1949年8月11日の夜です。
重傷を負ったMargaretは、事故の5日後、わずか48才の若さで他界しました。
Margaretをはねた運転手は、過失致死の重罪で刑務所へ送られ、夫Johnは3年後に彼女の後を追うように心臓マヒで死亡しました。Margaretは子供を産む意思がなく、二人の血を引く子供はいません。

ハウスの修復保存運動の歴史
この建物は、1899年に建てられたCornelius J. Sheehan氏所有の一世帯用住宅で、Peachtree Street周辺では最古のものです。当時からPeachtree Street は、Atlantaの目抜き通りとして賑わっていましたが、その風景は、今とは全く異なり、片側1車線の狭い道路に、このような住居がダウンタウンまで連なっていました。

Sheehan氏は婦人の逝去に伴い、1906年にこの家を売り払いました。新しい家主は、将来の商業の価値を見越したのか、建物を十数メートルそっくり後方に移動し、前庭の一部を売却しました。
この移動の際、フロントポーチは壊され、やがて1919年、全10室のアパートメントを再現することになりました。

アパートの老朽化が進み、1979年頃には入居者もいなくなりました。1989年にAtlantaで初めての国立歴史記念物に指定され「風と共に去りぬ」の生まれた場所であることを市民の多くが知ることになったにも拘わらず、その後1994年に至るまで、建物を補修する人もなく、風雨に曝され、朽ち果てるままになっていました。

1994年9月には、何者かによって放火され、多くを焼失しました。火事の報道後、ドイツのDaimler-Benz社は、この土地を所有者から購入し、建物の修復工事をするための基金として450万ドルを提供しました。

近代百周年記念,Centennial Olympic大会に合わせてのオープンを目指し、修復工事が完了しようとしていた矢先の1996年5月12日、再び放火され、地階部分と周辺のレンガ壁を残して焼け落ちてしまいました。Olympic開幕までわずか2カ月のことでした。

この放火後の後、Daimler-Benz社は、さらに追加基金を提供し、修復工事を進め、ようやく翌年(1997年)5月に完成オープンの運びとなったのです。

Margaret Mitchell(要約)
(Margaret Munnerlyn Mitchell)1900ー1949

ー1900年11月8日Atlanta生まれ
父親:Eugene Mitchell(弁護士、President of the Atlanta Historical Society)
Massachusettsにある女性だけの大学、名門 Smith Collegeで入学。
ー1918年、母親が インフルエンザで亡くなったため。Atlantaに戻る。
ー1922年子供のときのニックネーム、 Peggy Mitchellという名前でThe Atlanta Journalに記者として勤める。
同じ年 Berrien Kinnard Upshawと結婚する結婚は数か月しか、続かなかった。
ー1924年、正式に離婚。
ー1925年 Mitchell はthe Georgia Power Companyの宣伝部に働く、John Marshと結婚。
Margaret Mitchellの名前は仕事上で使い、私生活ではPeggy Marshを使っていた。
ー1926年、一流の記者だったが、落馬の事故でかかとを骨折したためThe Atlanta Journalを退社。
そして、夫のJohn Marsh勧めもあり、小説を書くき始めた。
そして10年もたゆまず書き続けた。
ー1935年 the Macmillan publishing house、という出版社のHarold S. LathamがAtlantaに新しい南部の小説を探しにやってきた。 Lathamは、Mitchellが秘密に小説を書いていることしります。
ー1936年5月 1,037ページの長編小説はTomorrow is Another Dayというタイトルで出版。
その後もMitchellは小説を校正、タイトルや主人公の名前をPansy を Scarlettに変える。
Macmillan出版は、マーケティング活動をし、一日50,000冊売り上げの記録も作った。
ー1936年6月HollywoodのプロデューサーDavid O. Selznickに映画化権を$50,000(その当時の新記録)で売る。
Mitchellは契約でプロデューサーとして参加。
ー1937年、the Pulitzer Prize と the National Book Award を獲得。
ー1939年Gone With the Windは、 Vivien Leigh /Scarlett O'Hara 、 Clark Gable/ Rhett Butlerの主役でプレミアムショー。 8つのAcademy Awardsを獲得。 Best Picture, Best Director (Victor Fleming), Best Actress (Leigh).

その後Mitchellは、Gone With the Windを世界中に出版する仕事に没頭した。

1949年8月16日、Margaret Mitchell 48才の時 , Atlanta's Peachtree Streetで夫と映画を見に行くとき、Taxicabにひかれて亡くなる。


関連Web
-www.gwtw.org/ The Margaret Mitchell House & Museum
-www.gwtwmarietta.com/ The Gone with the Wind Museum (Movie)
-www.biography.com/ Biography

Page1,Page2, Page3, Page4,Page5,

|投稿|コメント|