三日月の文学
ニューオリンズをより深く知るには、この町を訪れる前に当地に関する本を読まれることをお勧めします。そのひとつに挙げられるのは、1980年出版後、間もなくピュリツァー賞を授与された”A Confederacy of Dances"です。著者ジョン・ケネディは1969年に32才の若さで自殺するに至りましたが、そうした彼の生涯とは反し、著書は非常に明るい色に満ちています。
"A Confederacy of Dances"は、ニューオリンズの町を舞台に描かれたフィクションです。イグナチウス・ライレイを中心に、それぞれのキャストがあらゆる騒ぎや喧嘩、逃避などを繰り広げます。反抗的なイグナチウスをどうしたらいいかと頭を痛める母親。彼をセックスで変えようと真剣に試みる。ブロンクス出身のでしゃばりなマルクス主義者ミルナ・ミンコフ。バーボンストリートのいかがわしいバーの女性経営者ラナ・リー。独特の雰囲気でタバコを吸うジョーンズ、同性愛者達、警官。イグナチウスを雇ったはいいが、彼の不可解さにすっかり当惑し、次々とクビにする雇主達・・・。これら全ての人物が独特の個性を持っています。この小説には、筋書きの素晴しさと、ニューオリンズ訛りを文学で完璧に書き表したトゥールの並み外れた能力が見られます。どのページをめくっても、どんなエピソードのなかでも、話し言葉だけで登場人物がすぐに解るのです。たとえば、「うわぉ!」という一言だけで、ひっきりなしにタバコを吸っているジョーンズが思い浮かび、「どうしたらいいんどろうね?」と聞けば、哀れなライレイ夫人が思い浮かびます。そして、すぐに仰々しく難しい、それでいて意味のないことばを並べて周りを苛立たせるのがイグナチウスなのです。この本は典型的な”息もつけないほど、おもしろい小説”といえるでしょう。ウォルカー・パーシーは、「ジョン・ケネディ・ツゥールが元気で小説を書いていたらと、悔やまれてならない。」と語っています。
ニューオリンズの文学においては、南北戦争の直前までフランス語が使われていました。土地の作家達は、フレンチロマン派から大きな影響を受けていたのです。彼達は、フレンチロマン派の代表であるフランシス・レネ・シャトーブリオンのルイジアナ領地についての小説(1801年出版のAtlanta,1802年出版のReneなど)を通して、ルイジアナの優れた文学に目覚めました。ニューオリンズ出身の初期の作家で有名なのは、アドリン・ルーケットとドミニク・ルーケットの兄弟です。この二人のロマン派詩人は、ニューオリンズの大富豪の貿易商人の息子で、1803年代、ヴィクター・ユーゴとシャトーブリアンの時代にフランスで教育を受けました。二人共、ニューオリンズに戻る前にパリで最初の詩集を出版しました。この詩集には、ルイジアナの美しさと、彼達が故郷を愛する思いが表われていあいます。
オーデュボン公園は、ニューオリンズでスケッチを教えていたジョン・オーデュボンの名前に因んだものです。彼は1821年から1830年までバラック通り706番地とドフィン通り505番地に住み、ドーフィン通りの方は、後にオーデュボン小屋と呼ばれるようになりました。彼は1821年から1822年にかけて毎日書いた日記の中には、当時の素晴しい風景が描かれています。
1843年頃、自由黒人が”L" Album Litteraire" という、社説や短編、詩などを載せた雑誌を出版しました。この雑誌に載せられたうちのいくつかの詩は、1845年出版の初めてのアメリカン・ニグロによる詩集"Lee Cenelles"に収録されてあります。フランスの演劇ファンなら誰でも、ニューオリンズの自由黒人ヴィクター・セジョールによる30以上の劇を見たことを覚えているでしょう。
最初のニューオリンズのガイドブック”New Orleans and Environs" は、1845年に出版されました。これは、B.M.モーマン執筆による、歴史的なぎっしり詰まった本です。ウォールト・ホイットマンはニューオリンズのクレッセント新聞者勤めをしながら1848年に”I Saw in Louisiana in a Live Oak Growing" を執筆しました。1858年には、弁護士のS.S.ホールにより”Bliss of Marriage、or How to Get a Rich Wife" が書かれました。これは、恋愛、交際、結婚についての全てと、ニューオリンズまたはその周辺での金持ちの独身者のリストを付録に付けた本です。出版後にリストに載った内の6人が抗議し、この騒ぎによってホールは市を追放されるはめとなりました。
この三日月で、2人の有名な作家のペンネームが生まれました。サミュエル・クレメンズは、1857年から1861年にかけて、リバーボートのキャプテンとして度々ニューオリンズを訪れ、クレッセント新聞に何度か投稿をしていました。マーク・ツウェインと言う作家の名前が初めて表われたのはこの新聞で、これはクレメンズのペンネームなのです。(1882年、マーク・ツウェインはニューオリンズに戻ってきました、彼の" Life of the Mississippi" には、10章に渡りニューオリンズ生活の回想が描かれています。)また、1896年、ウィリアム・シドニー・ポーターも短期間この町に滞在し、アイテム新聞に短編を書いていました。ある伝説によると、ある晩ポーターは友達とバーに行き、短編小説に使うペンネームが欲しいと話していました。その時この友人がバーテンダーに向かって「オー、ヘンリー(おーい)酒をもう一杯くれよ!」と声を掛けました。そこで思い付いて誕生したのが、オー・ヘンリーだそうです。
1870年代の初め、ラフカディオ・ハーン、ジョージ・ワシントン・ケーブル、グレイス・キング、ルス・マックエナリー・スチュワート等が全米で注目を浴び始めました。ブレット・ハルトの”Local Color Episode" がアメリカのフィクションで絶賛されると共に、ケーブルの”Sieu George" が1873年のScribnerに掲載され、たちまち天才という評判をさらいました。彼の短編集 "Old Creole Days" と、ニューオリンズのクリオールを描写した小説 "Grandissimes" は、共に1879年に出版されました。しかしケーブルの辛辣な書き方はニューオリンズのクリオール達の怒りをかい、その中でもグレイス・キングは、ケーブルに反発する手紙を次々と送りました。このニューオリンズのレディの手紙は、1886年に出版された彼女の"Monsieur Motte"と共に有名になりました、1892年出版の短編集”Balcony Ladies”や1916年出版の小説"The Pleasant Ways of St. Medard"は、彼女自身の幼少の頃に基づいて書かれたものです。グレイス・キングは、手紙によってケーブルを打ち負かし、クリオールのチャンピオンになったといえるでしょう。
ラフカディオ・ハーンは1877年から10年間ニューオリンズに住み、ニューオリンズの土地や人々の神秘性にすっかり魅了されました。彼は、作家として充実し生活を過ごすと共に、 アイテム新聞とタイムス・デモクラット新聞に執筆していました。彼の短編集は " An American Micellany" の中に掲載されました。1889年に書かれた優れた小説 "Chita" には、1856年のニューオリンズを襲った津波の悲惨な物語が書かれています。また、1885年には、クリオールの諺を集めた"Gumbo Zhebes" も出版されました。
1921年、因習打破主義の若い知識人達によって、" Doublle Dealer" が出版されました。5年間に渡って発行された、全米でも有名なこの文学雑誌は、自由主義かつ反対制主義の特徴を打ち出しています。シャーウッド・アンダーソンやウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ソーントン・ワイルダーなどによるフィクション、評論、詩を載せ、この土地の文学界に強い刺激を与えることを自他共に認めています。
シャーウッド・アンダーソンは、1922年から1924年にかけてフレンチクォーターに住み、"New Treatment" や " More Treatment" などの印象派の研究書を書きました。" Sherwood Anderson's Notebook"(1926年出版)には、"Double Dealer" 出版時に掲載された論評も含まれています。同じ頃ウィリアム・フォクナーは、海賊通りに面した3階建ての煉瓦造りのタウンハウスに住み、初めての小説 " A Soldier's Pay" を執筆中でした。1920年代、ニューオリンズにとってのフレンチクォーターは、パリのレフトバンクと同じ意味合いを持つもので、ガ-トルード・スタインやジョン・ドス・パソス、アースキン・コールドウェル、ヘミングウェイ、フォークナー等の有名な作家やアーチストが2つの文学の町を行き来していました。
ルイジアナ生まれでニューオリンズに20年間すんでいたライル・サクソンは、" Father Mississippi"(1927年出版)や"Fabulous New Orleans"(1928年出版)、" Lafitte The Pirate”(1930年出版)、そして"Children of Strangers" を執筆しました。また、ローク・ブランフォードにとっても、20年から30年に渡ってルイジアナやミシシッピのプランテーション生活をしたことは、作品の背景に大きな影響を及ぼしています。フランフォードは、南北戦争のブードゥー・ニューオリンズを "Kingdom Coming" (1933年出版)の中で強烈に描いています。
1939年には、テネシー・ウィリアムズがこの町に移り住みました。彼がフレンチクォーターを走っていた電車を眺めていた時に、あの有名な台詞が思い浮かんだと言われています。
"「欲望」という名の電車に乗って、「墓場」で乗り換えて、6つめの角の「極楽」というところで降りるようにいわれたんです。!"
これは、アメリカ演劇の中でも最も有名な登場人物、ブランチ・デュボアの台詞です。この "A Street Named Desire" は、1947年にはピュリッツアー賞が与えられ、優れた戯曲とい世評を確率しました。ニューオリンズはまた、1950年出版の "The Rose Tattoo" の舞台にもなりました。ヴィユ・カレ(フレンチ・クォーター)は、テネシー・ウィリアムズがかつて住んでいた所として広く知られています。ヴィユ・カレの中での、ツゥルース通りにある賄い付きの下宿屋と、デュメイン通りのアパート、そして、”ストリートカー”を執筆した、ローヤル通りとチャ-ルズ通りの間に走るセント・ピーター通りのアパートの3カ所に住んでいたと言われています。彼はまた、あらゆるアーチストや作家と同じように、バーボン通りのジャン・ラフィート・ブラックスミス・ショップというバーで酒を組み交わしていたそうです。
フランシス・パーキンソン・キーズは1944年から亡くなるまで1970年まで、フレンチクォーターにあるチャーター通り1113番地の小さな家に住んでいました。ボルガードとキーズの家として知られ、南部将軍 P.G.T. ボルガードは、南北戦争18ケ月間この家に住んでいました。この家は現在一般に公開し、案内も出ています。キーズの執筆した半ダース余りの本は勿論、そのうち最も有名になった" Dinner at Antoine's "も、ここで書かれたものです。また、"Madame Castel's Lodger"は、ポルガード将軍がこの家に住んでいた頃に執筆されました。
この三日月の町はまた、アメリカ文学史に残る重要な作家を世界に送りだしました。まず、トルーマン・カポーティです。彼は、"Other Voice , Other Rooms"(1948出版)、"Breakfast at Tiffany's Rooms"(1958年出版)、そして" In Cold Blood"(1966年出版)を次々と書き上げました。"A Christmas Memory" は、ジュラルディン・ページ主演でテレビ化され、毎年クリスマスの時期になると必ず放送されるようになりました。
そして、リリアン・ヘルマンは" The Children's Hour" (1934年出版)や、" The Little Foxes" (1939年出版)"Another Part of The Forest"(1946年出版)、"Watch on The Rhine"(1941年出版)等のパワフルで政治的な戯曲を書きました。彼女の自伝的小説" Pentimento" (1973年出版)は、大喝采を浴びた映画”ジュリア”の原作です。
ベストセラーとなった "Inteview with The Vampire" " Vampire Lestat" そして "The Vampire Lastat and The Queen of The Damned" の著者、アン・ライスもニューオリンズの出身です。この町に浸透するミステリーの雰囲気が、幽霊が出てくる物語の背景にぴったりです。
アーチストや作家達は、今もニューオリンズ、とりわけフレンチクォーターに集まってきます。この町には、これとは書き表せない独特の雰囲気が漂い、それぞれの人間が、どうしても書かずにいられない、歌わずにいられない気持ちにさせてしまうのです。
(ハニ・ネイラー/ニューオリンズ観光会議委員会広報部からの依頼による執筆)