歴史

17世紀の終わり頃、フランスの探検家レネ・ロベール・カブェリエ(ラサール)は、カナダから遠征隊を卒い、ミシシッピー河沿いにメキシコ沿岸まで南下しました。1682年彼はアレゲニー山脈とロッキー山脈の間の広大な全土をフランス領と宣言し、太陽王ルイ14世にちなんで、この地をルイジアナと命名しました。一方、ピエール・ル・モアンヌ(アイバブィル)とその弟ジーン・バブティスト・ル・モワイン(ビエンヴィル)は、当時既にモービル、ナッチェス、ビロクシーの各地に植民地を創設していました。その後、1699年にはニューオーリンズを植民地と選定し、アイバヴィルによって十字架の標識が立てられました。

スコットランドの財政家、ジョン・ローンは、なかなかのやり手で、当時フランスで不動産の投資を行っていました。フランス宮廷にうまく取り入り、オルレアン公フィリツプ王(幼王ルイ15世の摂政)の信任をかちえた彼は、1717年に25年間有効のルイジアナ領土開発権を手にいれました。彼はビエンヴィルに植民地の建設を命じ、1718年に新しく誕生した町をオルレアン公の名前をとってヌーヴェル・オルレアン(ニュー・オーリンズ)と命名しました。金や銀の宝庫だというジョン・ローンの口車に乗せられ、続々とヨーロッパから移民が集まってきましたが、彼達がここで発見したものは、粗末なサイプレス(糸杉)の丸太小屋や、敵意に満ちたアメリカン・インディアン、そして蚊の多い沼地だけでした。しかし彼達はこの土地にととどまり、なんとか生活の基礎を築きあげました。

1727年には悪名高きパリの刑務所から88人の女性が釈放され、ウルスラ会の宗道女8人に付き添われ、移民達の花嫁として運ばれて来ました。洪水や疫病と戦い、アメリカン・インディアンの襲撃に遭いながらも、彼達の村は発展を遂げ、1737年にはフランス王室植民地となりました。

フォンテンブローの密約および後のパリ条約によって、ルイジアナは1762年にスペイン領に変わりました。この領地譲渡の知らせは、スペイン行政長官ドン・アントニオ・デ・ウロアが赴任するまでニューオリンズの市民には達しませんでした。町は混乱状態に陥り、ニューオリンズの埃り高きフランス系移民は、スペインの支配に対して激昂し、結局ウロアは命からがら逃げ出すはめとなりました。1768年の夏、24隻のスペイン軍艦、および2,000人の軍隊が到着してやっと事態を収拾し、ドン・アレクサンドロ・オ・ライレイが総督として就任しました。

1770年の初めは公海上に海賊の横行していた時代で、スペインとイギリスはお互いに大西洋上の商船を攻撃し、略奪をほしいままにしていました。1776年、ニューイングランドの植民地がイギリスも対抗し、スペインの植民地はアメリカの味方につきました。大陸会議のメンバーであり、独立戦争の隠れた英雄の一人でもあったオリバー・ボロックに説得されたデ・ギャルヴェツは、彼の率いる最大級の20隻に食料と武器弾薬を詰め込み、東海岸を北上し、ニューヨークへ向かわせました。1779年、英国がスペインに対して宣戦布告をすると、デ・ギャルブェツはモービル、バトン・ルージュ、ペンサコラ、ナッチェスのイギリス植民地を一掃しました。

スペイン軍がニューオリンズを占領したとき、この町は港町として栄えていました。ヨーロッパの船が定期的に寄港しており、ヤンキーの大型平底船もミシシッピー河を頻繁に下り、その人口は急激に増加していました。この町の80%が1788年および1794年の大火で崩壊しましたが、戦略地点として重要な場所だったため、その復興も急ピッチで進められました。

スペインの財力は、イギリスとの戦いで底をつき、もはやルイジアナ・テリトリーを維持していく余裕がなくなってしまいました。結局、1801年イルデホンソ条約により、ルイジアナはフランスに譲渡されることになったのです。

しかし、需要な拠点であるこの町がフランスの手中におちることを防ぐため、ジェファーソンは、閣僚のフランス駐在公使ロバート・リビングストンに命じ、ニューオリンズの港町を買収する件についてナポレオンに交渉させました。しかし、その交渉も徒労に終わり1803年ナポレオンは、ニューオリンズおよびルイジアナ・テリトリーの支配を目論みました。ところがフランス軍は黄熱病と悪天候にみまわれ、撤退を余儀無くされ、ナポレオンは遂にニューオリンズ、ルイジアナ・テリトリーの全土をアメリカに売却することに決めたのです。ジェファーソンは、ルイジアナ全土を総額1,500万ドルで買収したのですが、このルイジアナ買収協定は、現在のジャクソン広場を見下ろす、かつてのスペイン政庁カビルドで調印されました。ルイジアナおよびニューオリンズは、1803年11月30日にアメリカ領となりニューオリンズは1805年に都市として公認され、ルイジアナは1812年にアメリカ合衆国に合併されました(最後の合併州)。

ニューオリンズに移ってきたアメリカ人は、先住のクリオール系ニューオリンズっ子達に軽視されました。フレンチ・クォーターで歓迎されないこうした新しい到来者達は、運河を挟んでフレンチ・クォーターの反対側に住宅を建て、両者の間には争いが絶えませんでした。この両者を分ける細長い地帯は、"中立地帯"と呼ばれ、後にカナル・ストリートと称されるようになりました。この通りは、中央分離帯のある幅広い大通りで、今日でも市民はこの中間地帯を"中立地帯(ニュートラル・グランド)"と呼んでいます。

1812年の戦いの間、イギリス軍は何度もニューオリンズを占領しようと試み、ミシシッピーの制圧を狙いました。1815年の初め、アンドリュー・ジャクソン将軍は、テネシーから志願者を率いて乗り込み、海賊ジーン・ラフィートをはじめ、自由黒人、クリオール、チョクトー・インディアンなどが集まった混成軍に合流し、29日に渡るニューオリンズの激戦でイギリス軍を撃退しました。イギリス軍の戦死者は、2,000人を超えましたが、ジャクソン軍はわずか71人を失うにとどまりました。ニューオリンズは、蒸気船や綿花、煙草のおかげで、経済的に大きな発展を遂げました。1840年までには、その経済力はニューヨークに次いでアメリカ合衆国で2番目の都市となったのです。

1862年から1872年の間、ニューオリンズは北軍に占領されました。1915年に激しいハリケーンによる災害を被り、さらに1918年には全国に流行したインフルエンザにより、35,000人ものニューオリンズの住民が死亡しました。しかし、度重なる大被害にもかかわらず、この町は生き残り、繁栄に向います。

今日、ニューオリンズは繁栄し続けており、米国でも、また世界でも最も大きな港のひとつとして重要な役割を果たしています。全市あげて再開発の気運が高まっており、何百万ドルの投資が行われており、建設が促進されています。しかし、こうした近代化が意欲的に進められる一方、世界的に有名なジャス、料理、そしてロマンチックなクリオールの文化遺産でも知られ、過去の歴史の保存にも慎重な配慮を怠っていません。発展を続ける宇宙時代、ハイテク時代にあって、ニューオリンズは人間としての生きる歓びを大切に守り、"この世の憂いを忘れさせる町"と呼ばれています。(ハニ・ネイラー/ニューオリンズ観光会議委員会広報部からの依頼による執筆)